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特集 生きがい、仕事、家族


跡見は今も

8文 F.Y

月一度の跡見の書道教室に席を置かせていただいて、いつの間にか五年になります。 文字の上達の方はまだまだですが、お稽古の合間に先生のお話を伺い、また先輩の方々とお話できる事で、今まで知らなかった跡見学園を発見でき、それは又亡き母と対話できる時間でもあります。

茨城の竜ヶ崎市から跡見のキャンパスまで、自分で車を運転して通っていますが、首都高速を山手通りで下りて、目白通りから不忍通り、そして春日通りへの道は、昔の記憶を鮮やかに蘇らせてくれます。 それは、目白の三寮に二年間暮らした私達寮生が、バス通学で幾度となく通った道だからです。 今は亡くなられたお優しかった舎監さんのこと、美しくて少し厳しかった副舎監さんのこと、生活を共にした寮友との思い出の数々・・・。 いつ通っても、思わず寮の方向に目を向けてしまいます。

今は校門の位置も変わり、料理、音楽学などを学んだ古い校舎もなくなりましたが、目を凝らすと、体育やクラブ活動で使用した校庭の土には、いまだにあの時の汗の匂いが染みついているようにさえ思え、思い出はいつまでも尽きません。

数えてみれば五十年近く前、大学受験でやっとの思いで念願だったある四年制大学に合格できたにもかかわらず、短大の方を母に選ばせられ、正直なところ強引な母に腹立たしさを覚えたほどでした。 けれども入学して数日で、母の選択が間違っていなかった事に気づきました。 そこには、受験の為の補習授業に明け暮れた田舎の共学高校には全く無縁の、のんびりとした心安らぐ不思議な雰囲気がありました。

華やいでいながら、決して下品ではないいでたちで、温和で気品を備えた物腰と、静かな言葉遣いの優しさに、さわやかな感動を覚えました。

そして、それと申し合わせたような字の達筆さにはとても驚き、又羨ましく思ったものでしたが、年を重ねた今、再びこうして学ぶことで、跡見特有のカラーの成り立ちが解ったような気がいたします。

それは跡見の伝統を受け継がれ、守り続けながら、深い愛情を持ってご指導に当たられた歴代の先生方のご苦労が実を結んだからに違いありません。 そして、その教え子達はこの恵まれた環境に感謝し、心豊かに平和を願い、正しい自覚と誇りをいつのまにか身につけたのでしょう。

跡見の精神と伝統を確実に受け継がれ、教育一筋を貫かれていらっしゃる板谷先生に、長い間憧れ続けていた跡見の文字をご指導頂けることは、限りない幸せなことだと思っています。 そして同時にこのお教室で学ぶ度に、跡見を愛して止まなかった母への思いが、いつも鮮やかに蘇り、遠い昔の思い出に浸ります。 古ぼけた母の形見の着物を身につけ跡見の文字を学ぶことが親孝行にも繋がることを、最近私は信じることにしました。

また、今もなお続いているクラスメートとの変わらぬ友情と、今も広がる跡見の輪は、私の人生を多彩に彩ってくれています。 彼女達から学んだ跡見の精神と誇りを、これからも、大切にしていきたいとおもいます。平成十六年五月九日(日)母の日に。


私の生きがい

15家B K.K

私は今、生涯学習活動の一環として、近くの小学校で、「手芸作クラブ」という児童のクラブ活動のボランティア先生をしてます。 年間十五・六回、四年生から六年生が対象で、ハンカチで作る袋物、粘土、ステンシル、フェルト手芸など、色々挑戦しています。 人数は二十人位の時もあれば、五人の時もあり、張り切ったり気が抜けたりしながらこの五年間続けてきました。 子供達はこの時間を楽しみにしてくれていますので、ネタ探しや事前の準備に追われながらも、やり甲斐を持って頑張っています。

私が手芸に目覚めたきっかけは、以前、夫の転勤先の広島で、友達作りの為と引き受けた小学校の役員の中に、手芸の達人や手芸が大好きな人達との出会いがありました。 週一回の手芸の会をもちながら、仲間同士で様々な手芸の知識を習い教え合いました。 パッチワークやステンシルを覚えたのもこの頃でした。

五年後、再び長岡京市に戻ってくると、パートの仕事に出るようになりました。 仕事のかたわら月二回のパッチワーク教室を自宅で開き、友達に手ほどきしながら作品づくりに励みました。

ある時、中学二年生の選択授業の家庭科で、パッチワークを教える機会がありました。 短大時代の教育実習以来の教壇でした。 しかし制作の途中までは指導できたものの、仕事の都合で仕上げは担当の先生に託すという不本意な終り方になってしまったのです。 これがその後、仕事より生涯学習の道へ進もうと考えるようになった動機と言えます。

手芸を生かす次のステップとして、生涯学習インストラクターの資格取得を目指し、半年間の通信教育を受講しました。 終了後すぐ、市の生涯学習課へ飛んで行き、何か仕事はないか尋ねたものです。 そして市の生涯学習推進委員として一歩踏み出してから今年で六年目。 その間活動しながら更に上級の資格も取りました。

推進委員の仕事は主に、地域の人が興味を持って集ってくれそうな企画を立て、事業を実践することです。 その初仕事は、得意な手芸講座で、エコクラフトでマクラメ編みのコースター作りをしました。 大勢集まった日の光景は今も忘れられません。

今では広く専門家に依頼して、歴史講座、ガーデニング教室、万華鏡作り、太極拳など、校区の推進委員と共に年に数回の事業を展開しています。

長岡京市はその昔、奈良時代から平安時代に移る間の十年間、長岡京という都があった所です。 春は天満宮のきりしまつつじ、乙訓寺のぼたん、秋は光明寺のもみじと四季折々の美しさがありおいしい筍の産地でもあります。 こんな町で私なりのやり甲斐と生き甲斐を感じながら、日々過ごしています。


就職ガイダンスより役立った跡見学園での「柳は緑 花は紅」

31文A K.N

最近、仕事仲間や経営者同士の飲み会で必ず出る話題がある。 それに共通したテーマがいまどきの「若い社員たち、後輩たちの仕事に対する基本姿勢がなっていない」ことについての愚痴だ。 曰く、

「叱るとすぐにむくれる、いじける」
「自分で一生懸命に考え抜いた答えを出してこないから、企画がヤワイ」
「どこがどうして間違ったのか、謙虚に反省しない」
「ケアレスミスが多すぎる」
「何度同じことを指摘されても直さない」etc・・・。

枚挙に暇がないほどである。 私も昔は同じことを先輩から言われていたのだとも思うが、どうも「仕事をやる態度」における根幹だけは違う気がしている。

私は現在、雑誌などの編集をするプロダクションを経営して11年目になる。 跡見学園短期大学を昭和57年に卒業し、情報誌を発行する(株)リクルートに跡見学園出身としては初めて採用され、その後二社を経て起業独立した。 実は、中学、高校も跡見学園だったので、まさに世間知らずのまま社会人になったというわけだ。 学生時代に先生方が「跡見の子は素直だけど、騙されやすいから・・・」とか「精神修行が足りない」とか「そのままのいいお嫁さんになればいいんだから・・・」とかおっしゃるたびに「な~に言ってんだか!」と思っていた超問題児の私は、先生にとっては頭痛の種だったはずである。

しかし昨今、跡見学園で薫陶を受けたあの「柳は緑、花は紅」という素直さや謙虚さが今の私のキャリアを形つくってくれたと思えてならない。 それがなかったら、今頃このように仕事を続けてこられなかったろうとしみじみ感謝するようになった。 おそらく、私はとても人に恵まれ、仕事に恵まれて今まで二十年間を働いてきた。 「それは運がいいのだ」と片付けるのは簡単だが、やはり跡見の校風の芯にある「人を敬う」「目上を大事にする」という姿勢があったからこそ、私も先輩から可愛がられ、人から大切にしてもらえたのだと思う。 どちらかというと不良の部類に入る私だったが、上品な校風と実直な先生や素直を絵に描いたような友人たちに囲まれた学生生活を送ることで身についた資質が今の私の武器になっているのだと思う。 骨の髄まで染み付いた「一生懸命やってみる」という姿勢や疑いもなく相手の懐に飛び込んでいく素直さによって、多くのクライアントや仕事の先輩達に可愛がられてきた。 これは、私にとっての一種の財産だ。 そして跡見の卒業生なら誰もがもつことの可能な財産だといえる。

就職ガイダンスや就職の予備校が教えるのは、面接のテクニックや試験の傾向だろう。 しかしそんな小手先では、今の就職難には採用の壁を突破することはできない。 本当に大切なのは、仕事に対する素直な姿勢、先輩に対する謙虚な心、無骨なまでに一生懸命やれる情熱なのだ。 そんな素晴らしい武器を学校にいながらにして学ぶことのできた跡見学園の校風を大切にして、後世に語り継いでいきたい。

といっても、私だってこんなことに気がついたのはつい最近なんですけれどね。

(株)メディアム代表取締役社長


田中田鶴子先生のメッセージ

33生C M.O

平成十六年六月二十七日、池袋、自由学園明日館(フランク・ロイド・ライト設計重要文化財)の趣きある旧校舎にて、33期生芸C組のクラス会を開きました。 卒業して二十年の歳月、それぞれ異なった環境で日々の生活を積み重ね、いろいろなことを乗りこえてこられて得た、自信と心の余裕というものが、出席者の皆様の澄んだ笑顔に感じられ、この時期に再び愛すべきクラスメートに出会えましたこと、心からうれしく思いました。 今回、皆様が望まれた田中田鶴子先生のお出ましは叶いませんでしたが、欠席された方のために、アトリエでの先生のご様子をここでお伝え致します。 先生は現在九十一歳、益々精力的に絵を描き続けていらっしゃいます。 "ヨーロッパとアジアの融合"がテーマの一つにあるそうで「白い紙に宇宙の哲学を表現したいのです」と、今のお仕事について語られました。 そして私達に「何でもやってごらんなさい、但し発展していかなければだめですよ。私もこの頃はいろいろな色を使うようにしています」と力強くお話くださいました。 先生が真の芸術家として、日々発展・進化され続けていらっしゃることに、正直、圧倒される思いが致しました。

どうか、九十一歳現役の展覧会が開かれます様に、私共一同の切なる願いでございます。


チャンスの神様と私

36家B Y.U

「チャンスの神様」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 この「チャンスの神様」は、ツルツルの丸坊主で、前頭部のあたりだけ、一束の髪の毛がボソッと生えているという妙な生き物なのです。 この神様は常に360度クルクル回転しているので、前を向いた瞬間にその髪の毛を掴まないと、慌てて掴もうとしてもツルツルなので滑って掴めないわけです。 要するに、「チャンスは、今だと思った時にきちんと掴まないと逃げちゃうよ」という話です。 納得していいのやら、変な話と、そのときは思ったものでした。 ところが、この話というのは満更でもなく、今に至るまで何度となく人から聞いていました。

前置きが長くなりましたが、私はこの言葉を、結構意識しながら生きています。 先日、受けた「プロジェクトマネジメント」という研修でも、結局は、「今回習ったことを、今日だけで終わらせるのではなく、いつでも自分が会社(仕事・職場、何でも・・・)を変えるくらいの企画案を作って持っていてください」ということでした。 すると、偶然にもその数日後、上司から呼ばれて、「今度こういう組織にしようと思うが、部下は何人いたら足りるか」といきなり聞かれたのです。 「あなたがマネージャーになったら、どう組織を動かしますか」と。 その瞬間に、スラスラと自分の考え方が口から出てきたことには、自分でも驚いています。 sんなときにも、これが、「チャンスの神様」なのだと実感しましたね。 組織を任されることは、かなり高いステータスだからです。 今の世の中、大企業のソニーとは言え、安泰ではありません。 厳しい人事政策が実施されているので、女性だからといって聖域ではあありません。 (入社した頃は、女性が会社の状況で辞めたり移動したりということは少なく、その点、男性は大変だなぁと思っていましたけれどね) その中で、期待されることは素晴らしいことです。

掴んだチャンスは「いきがい」という言葉に変身します。 今、私は「仕事」が楽しくてしようがありません。 ソニーがすごいと思う理由は、(人によっても違うかもしれませんが)一年前の自分より、明らかに今の自分の方が成長(スキルアップ)していると思えることなのです。 そういう仕事の仕方をさせてもらえる会社ということなのでしょうね。 そして、休みもリフレッシュのためしっかり取得します。 仕事と休暇を両立させることの難しさはありますが、私はこれからも、プライベートと仕事の共存が大切だと思うでしょう。 ゴルフに海外旅行、好きなことをして、仕事もする。 こんな風に私は生き生きと過ごしています。

「チャンスの神様」は、決して仕事だけに通じるものではありません。 プライベートでも何にでも当てはまるのです。 既に、結婚して子供がいる方も多くいるでしょう。 子育て、住宅購入、義父母との付き合いなど、色々なケースで「チャンスの神様」が存在するのではないのでしょうか。

跡見出身の皆さんは、きっと生き生きと暮らしている方ばかりだと思います。 「チャンスの神様」を意識しながら、皆さんも楽しく充実した人生を送ってください。


生きがい

39英D M.Y

跡見卒業後、金融機関に勤めたが夢を捨てきれず法学部編入、卒業し希望の出版社へ。 けれど病気になり結局3年あまりで退社。 ここで人生終りかと思いきや、なんと、こんな八方ふさがりの中で忙しいながらも続けてきた趣味が私を救ってくれた。 世界一人旅。 在学中から日本はもとより世界へ、一人でフラッと旅に出るのが好き。 行った国はおよそ二十カ国。 まだまだ足りない。 でもいろんな国に出会い、いろんな国の人々と会話し、そこに今の私の原点がある。 一人旅の中で、生きる行間を考えられるようになった。 多くの刺激を、敢えて自分から受けにいっていた自分。 そのエネルギーの矛先は見えないながらも、今に続く道を導いていってくれていったんだと思う。 旅先で知り合った今の主人との間には、本当に授かりものとしか言えない、長期入院しながら生んだ我が子が二人。 そして、初めて生んだ子は健康に感謝しつつも、育児ノイローゼになるのではないかと思われるほどの、いわゆる、現在のアメリカの研究でいわれている育てにくい子の例にぴったりであった。 子どもと公園への往復が続く中、独身の頃のエキサイティングな自分がなつかしい。 「何かをはじめたい」。 心の叫びがではじめていた。 跡見在学中より法学は好きで、当時は法学の原田先生にも個人的にご教示いただいたりし、又、勤務時代に培ってきた実績を形で表すことを目標にまずは宅建の勉強開始。 さらに家計生活のあり方へも疑問を投じる、マネー設計を本業とするCFPファイナンシャル・プランナー取得へ。 そんな中、夫のフィリピン転勤。 自分を伸ばすチャンスとばかり、これまた、当時担任していただいた兼武先生へ連絡させていただいて、本場の英語を学ぶために、推薦状をもらい渡航。 残念ながら、子ども1歳、会社としても最初の赴任家族であったことなどから、主婦としてフィリピン滞在の大変さゆえに多忙を極め、この推薦状がいかされることはなかったが、今でも将来の希望として大切に保管している。 また今の仕事にも海外生活のマネー設計を体験者として論じることができるというおまけをいただいた。

現在、私はファイナンシャル・プランナーとして、お客様の家計診断や、住宅ローン、生命保険の見直しをはじめ、ライフプランの相談などを受けている。 いってみればお金の相談屋さん。 宅地建物取引主任者でもあり、マイホーム購入に際して契約ばかりを望む不動産業側ではなく将来の家計を案じながらの、そして実際にこれから住むマイホームとなる物件の住み心地を検証しつつのチェック提案を行っている。

私にとって生きがいを探すことと、その実現のための努力こそが生きがいであり、これはとどめることを知らない。 仕事や家族や子育て。 二十歳の頃から考え合わせでも結局生きがい探しであることに変わりはしない。 心の中の葛藤は二十代の頃と同じ。 「あ~疲れた。」と時にコーヒーを飲む期間を持ちつつ・・・夢に向かい続ける自分がそこにいた。


「家族」と「生きがい」

53国D K.T

短大を卒業し、社会人になった私にとって「生きがい」や「家族」とは何かといわれたらそう簡単には言い表せません。 社会人となり、まだまだ未熟な自分だけれども「人生」というものをとても重く考えるようになりました。

それには、環境という自分の周囲の問題が一番大きいと思います。 立場や生活において、今の自分がどの位置にいて何をすべきなのかを常に考えるようになったのです。 「生きがい」とは一つではなく、今を生活している中で次々と変化していくものだと思っています。 昨日の今日でも変化し、ゴール等はないものだと私は思います。 「生きがい」を今から決めつけてしまうことはできません。 そして、その私の環境に一番影響を及ぼすのは「家族」の存在です。 家族を一言で表すならば、私にとっては「安らげる空間」でしょう。 生きていく中で毎日を共にし、同じ屋根の下で顔を合わせ、それが当たり前のものとして二十年間を過ごしてきました。 私もいつか結婚をし、新しい家族を持つのでしょうが、今いる私の家族は私を形成してきた存在であり、この先もずっと影響されていくのだと思います。 社会人となり、特に家族の支えや助言が自分にとって考え方を改め直すキッカケにもなりました。 学生の時の自分と現在の自分では悩みの量がまるで字がいます。 そんな時、人生の先輩であり経験者である家族の存在が何度も私を助けてくれました。 環境が変わることで自分にここまで悩みが増えるなんて思ってもいなかった私に、家族のありがたさを再認識させることとなりました。 いつまでも、少しの力で良いから支えていてほしいと思っています。

今の私にとっての「生きがい」とは、「自分磨き」です。 幅広い事なのですが、今の私にとってプラスになる事もたとえマイナスになる事も全て受け入れて、大きな人間になる事です。 新社会人となった私には未知の世界ばかりで辛いことは山のようにあります。 その全部を現実として受け入れて、頼られる人間になりたいと思うのです。 そしていつか、支えてもらっている私の家族に逆に頼られる存在になっていたいと思います。

今現在の私の「生きがい」は一生を通してのことだとも思うけれど、挙げ出せば細かいことから次々と出てくると思います。 しかし、本当に今の私にとって必要なことは、幅広いことかもしれないけれど、人生の現実をしっかりと受けとめることだと思っています。 たくさんの経験をつんで少しでも後悔のない人生を送りたいと考えています。 そんな生活をしていく上ではやはり周囲の環境がとても大切であり、家族はまさに私の支柱なのだと思います。 いつまでも自分が成長していけるように、今の気持ちを忘れることなく持ち続けていきたいと思っています。


玉響(たまゆら)

21家B S.K

偶然
おむかいでみつかる
曽祖父の写真
セピアのいろ

ときは 昭和初期
場所は 堀切菖蒲園

写真屋をかこむ
商店の旦那衆
うしろの建物は静観亭?

ロシアとの戦いで
四つの勲章をもらったひと

去年
百歳の祖父が亡くなり
仏壇の掃除をしながら
引出しの奥に
錆びついた 四つの勲章

八十年の時空をこえ
いま そのときの姿

急に
背中むずむずして
羽がはえてきそう

わたし
戦争を知りません

戦争の むごさ
むなしさ おろかさを
あなたは
知っているでしょう

遠く
アフガン
イラクの空を飛びたい
こどもたちの声
ききながら

気が遠くなるほどの時間
体をむしばむ兵器のこと
あなたに教えたい

よみがえる心あるなら
この羽に力を!

セピアのいろ
消えぬまに


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