おとずれ34 目次 / ご挨拶 / イベント / 支部会 / クラス会 / バザー報告・編集後記

『花蹊日記』を読む

理事長 跡見 純弘

跡見学園女子大学では、かねてから『花蹊日記』の編纂事業に精力的に取り組んでおりました。 そして昨年十二月、学園創立百三十年記念として一巻から四巻が出版され、更に本年四月、別刊として第五巻目が出版されたことは皆様ご承知の通りです。

私が花蹊と重なるのはわずか三年位であり、柳町の校舎の記憶はかすかにありますが、花蹊(日常私達は「御師匠さん」とよんでいました。)の記憶は殆どありません。

併乍ら、私の両親並びに周りの大人達から私が得ていた自分の誕生に係る状況は次の様なものでした。

即ち大正十一年六月二十三日、私は小石川柳町の跡見女学校寄宿舎(当時は「お塾」と呼ばれていた様です。)で次男として生まれました。 そして一年後の大正十二年六月二十五日、三男である弟が生まれた為、母親の母乳が足りなくなったので、次男である私は都下高井戸(当時は全くの田舎だったそうです。)の農家にあずけられた。

勿論この話は筋が通って居り、且つ納得出来るストーリーだったので、私は今迄何の疑いも持って居りませんでした。 そして昨年『花蹊日記』編集委員座長の岩田秀行先生より「理事長の生まれた時の記述もある。」旨御話頂きました。 そこで今回『花蹊日記』に記述されている私の誕生に係る部分を改めて詳細に読んで見る事とし、第四巻全巻に目を通しました。

先ず

大正十一年六月二十三日
朝の勤行すむ。幾子(私の実母)少々腹いたみ出したるに、産婆電話にて呼に遣したるに、直に来る。 予は教授のある日にて九時に見舞ふ。 まだ落付居たり。 十二時迄、教授にかかると云て教場へ出る。 十時半もはや出産ありたると李子より。 直に産屋に行て見るに、玉の様なる男子にて、実にたくましき貌付、よく発達も出来て、悦び極りなし。 十時廿分、分娩と云。

六月二十八日
前文略。
憲重(私の実父の本名は「冨司」だが、しばしば憲重と記述されている。)次男命名式
純弘 予撰
純弘児、里子に預ける。乳母来りて乳の験査も至極よくて愈此人に預けることに究る。

七月二十三日
朝の勤行済。 純弘、田舎より帰、よほと顔も色黒く強く発育もよろしくて。 御宮参り氷川神社へ参拝す。

以上の日記記述からもわかる通り、私は誕生後一年どころか、五日後には里子に預けられる事が決まっていた様です。

また、一ヵ月後の七月二十三日は、里親の処から柳町に一時戻ってきたときの記述があります。

誕生日の状況が自分が知らされていた事実と大きく異なっていた訳ですが、八十才を過ぎた現在それ程のショックは感じません。 それでも何故と云う疑問は残ります。

併乍ら、自分の誕生時の状況がこの様な型で残されると云う事は誰にでもある事ではなく、むしろ私は真相を知った事を嬉しく思っております。

因みに

大正十二年六月二十五日(私の弟の誕生日)の日記は

前文略
午下一時廿分いく子(私の実母)男子分娩、両人共健全。

そして最後に

けふはいかなる良辰なるか、地久節に男子出生、

と記述されて居り其の後三男に係る記述は見当たりません。

私は兄弟姉妹七人(四男三女)で、その内花蹊生前に誕生したのは三男迄ですが、『花蹊日記』の中で可成り詳しく記述されているのは殆んど私丈です。

当時、私が、後年李子の養子になると云った事は誰も考えてもいなかったと思いますが、花蹊が命名で純弘予撰と記述している事は、何かの因縁と考えざるを得ません。

日記と云うのは色々の読み方が出来ると思います。

之からも『花蹊日記』の中から何か新しい発見が期待できるかも知れませんので、時間をかけて目を通していくつもりです。

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その後の跡見

学長 嶋田英誠

みなさん、こんにちは。まず、跡見学園の近況をご報告します。

去る三月、跡見学園女子大学短期大学部は、最後の卒業生を送り出しました。 学年当初、二七八名の二年生が在籍していましたが、うち二七四名が無事に卒業しました(さまざまな事情により四名は退学しました。) 就職内定率も八七・九パーセントと、近年にない好調な結果となりました。 また、学生会長が跡見学園女子大学マネジメント学部へ編入学したのをはじめ、少なからぬ学生たちが他の学校へ進学しました。

在学生がいなくなったので、短期大学部は三月二十日最後の教授会を開き、学園は三月二十七日理事会を開き、短期大学部の閉学を決定しました。 四月には文部科学省に短期大学部の廃止願を提出し、六月十一日付で認可を受けました。

以前にも申し上げたことがありますが、学校というものには教育事業を行うために四つの資産を持っていると考えることができます。

一は学生の定員、
二は学問の分野、
三は教職員、
四は校地、校舎、

です。いずれも、文部科学省の認可という形で、社会から付託・承認を受けているものです。 短期大学部のこの四つの資産は、二年計画で跡見学園女子大学に受け継がれました。 一と二は、平成十八年度に新設した文学部コミュニケーション文化学科と、マネジメント学部生活環境マネジメント学科に引き継がれ、開設二年目を迎えた今年、入学定員を上回る学生たちが、元気に勉学に励んでいます。 この学生たちは、いわばみなさんの直接の後輩たちに当ります。 三は、従来の大学の先生がたと混じりあいながら、大学における二学部五学科のいずれかに配属され、新天地での教育に取り組んでいます。 四は、四月から女子大学に受け継がれました。 かねて計画のとおり、四月から旧西館の取り壊しに入り、六月十九日現在解体が終わり、土地は更地に戻りました。 八月から新棟の建築に入り、来年十月には、地上九階の新校舎がお目見えする予定です。 (なお旧東館は、一部内装に手を入れますが、外観はそのまま、女子大学の校舎として用いられます。)

このように、短期大学部は、その表札こそ下せ、学校としての実質は女子大学が引き継ぎ、生れ変って活動しています。 これからの女子大学は、みなさんの学校の後継者です。 もちろん、卒業者のみなさんへのさまざまなサービス業務も、女子大学が受け継ぎます。 施設の利用・卒業証明書の発行など、気軽にお申し越しください。 そして、これからの女子大学を、どうぞ心から応援してください。

話は変りますが、六月十五日、桃李の会名古屋支部会からお呼ばれを受けて、南知多に行きました。 名古屋から名鉄特急・鈍行と乗り継いで、内海の海辺での集いでした。 前日の大雨がうそのように晴れ渡って、のどかな初夏の海の向こうには紀伊半島の山並みが視界の限りに広がり、強い陽射しに爽やかな風、アカメガシワの花がむせぶように揺らいで、まことに結構なお日和でした。 セッティングしてくださったのは、地元の卒業生Sさん、展望絶佳の自前のレストランに、自前の地ビールで歓待してくださいました。 この会は、何十年も続いている年一度の集まりとか。 わたしは学長というご縁で、昨年からお仲間に入れてもらっていますが、温かいつながり、なごやかな歓談、それが跡見という縁(ゆかり)の上に成り立っている確かさを、ひしひしと感じています。

桃李の会のご活動が、これからも滞りなく続きますように、心からお祈りいたします。 大学としても、「茗荷谷の卒業生」諸君に対してできる限りの応援をいたしますので、遠慮なくお申し越しください。

末筆になりましたが、みなさんのご健勝を心からお祈り申し上げます。

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ごあいさつ

幹事長 萬葉洋子

卒業生の皆様お健やかにお過ごしの事と存じます。昨年十一月十二日に学園主催で行われました、「ホームカミングデー」には、二〇〇〇名近い多くの卒業生が参加され、懐かしい先生方やお友達と語りあったり、思い出の校舎を歩き、数十年前の若かりし学生時代の思い出にひたる事が出来たのではないでしょうか。 そしてお手伝いした私達、桃李の会常任幹事も改めて、卒業生の皆様の跡見学園に対する熱い思いを知る事が出来ました。

さてかねてよりの計画通りに「西館校舎」も平成十九年四月より取り壊しが始まり、七月現在すでに更地となり、予定では平成二十年秋頃には「地下一階、地上九階」(延床面積一一八七〇〇平方メートル)の超近代的な新校舎へと生まれ変わります。 跡見学園女子大学「茗荷谷キャンパス」となり、ここ文京区大塚も新たな駅前再開発と共に大きく変化することでしょう。 西館取り壊しに伴い「第二十九、三十期卒業生寄贈の桜の樹」が伐採に至りました。 三十数年の永きにわたり跡見学園や在校生を見守り続けた桜の樹をなんとか、別な形で生かす方法を常任幹事一同で考えた結果、伐採後、二年間乾燥させ、その桜材を使用し、ベンチ二台を作製する事にいたしました。 それに伴う諸費用一切は桃李の会が負担し、平成二十一年、もしくは二十二年の春頃には、新校舎の何処かに、生まれ変わった桜材ベンチが設置される運びとなります。

六十年にわたる歴史ある跡見学園短期大学は、この三月に幕が引かれましたが、「桃李の会」の活動は従来通り行われております。 なかでも卒業生の新しく正確な住所の把握、これは個人情報のため極めて慎重に処理しております。

毎年の学園祭参加「バザー」が今年より廃止になり、常任幹事一同、ホッとすると同時に一抹の寂しさも味わっております。 「イベント」は今までどおり、今年は十月三十日(火)に足利方面に決定いたしました。 四ページを参照のうえ奮ってご参加お待ちしております。

また以前より各支部会出席の折に、東京でも本部会なるものを開催してはとの声が多々ありました。 そこで次回、来年度の総会をかねて、卒業生の皆様に出席していただき、懇親を深めてはと考えてみました。 七ページ四段目にその詳細を記事にしてみましたので皆様のご意見をお聞かせ下さい。

今後も試行錯誤しつつ、幹事一同、力をあわせて進んで行きますので皆様の応援、よろしくお願いいたします。

末筆ではございますが、「新潟県中越沖地震」心よりお見舞い申し上げると同時に一刻も早い復興をお祈り申し上げます。

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跡見短大での思い出

前教授 本間 小枝子

跡見の桜の美しい開花を眺めながら短期大学部閉学とともに退職してから二ヶ月が過ぎようとしております。 その後四月に入り、田舎で両親の世話をしながら月日の経つ速さを実感しております。

私は跡見学園短期大学に昭和三五年から、家政科教職員として勤めさせていただき、跡見学園短期大学部として閉学までの長きに亘り、短期大学としての最後の跡見を見届けて去ることができましたことに感慨無量のものがございます。

私が家政科の助手として勤めました当時は、西館三階第二研究室でした。 また三階には、文科、家政科、生活芸術科、一般教養の各研究室が集結しておりました。 家政科の場合は食品、栄養学関係は一階の自然科学研究室、調理学関係は地下の調理学研究室、被服学、家政学関係は第二研究室と分かれておりました。 後日第四代学長となられる有冨先生が、カリスマ的に家政科を取りまとめておられました。 先生は普段は洋服でいらしても、和服を研究室に用意されており、重要な方とお会いになるときは、スパッと和服に着替えられ、さっそうとお出かけになられました。 当時の懐かしい思い出です。

また、当時は大学の数が少なかったこともあり、女子は「四大よりも短大」志向というのが一般的傾向でした。 そのなかで「跡見」は短大御三家の一つとして高い評価をうけておりました。 卒業生の就職依頼に会社訪問の折「跡見の卒業生は、みんな評判もよく、またそれぞれ立派な方と結婚しており、この伝統を維持していかなければならない。」と有富先生はつよく言っておられました。 お嫁さん探しに、東京近辺のみならず九州からも訪れる方もある状況でした。 「今は昔」短大の良き時代のお話です。

家政科のカリキュラムは当初食物栄養を中心として編成されておりました。 まだ食料が十分でない時代でしたので、円満で健康な科学的良識人として社会生活、家庭生活に適応することが望ましいとする教育理念の下にありました。 昭和四十年代になりますと、社会経済的状況の進展変化により多様化が要請され、これに応えるため、昭和五十三年新たな構想のもとで家政科にコース制が発足しました

コース制は被服、食物、住居の三つであり、入学後一年次から各コースに分かれ、基礎的知識と技術の習得、実験、実習を通して実際的能力の開発を図るものでした。 ただし、各コースとも一年次には家政学関連科目が必修となっており、この他共通自由選択科目として幅広い分野からの科目も開講して、今日的課題に応えることができる良識を身に付けられるよう編成されました。 その後も常に社会的ニーズに応えるべく、より良いカリキュラムを目指し、手直しが繰り返されてまいりました。 即ち、私たちの生活に最も身近な「課程」を基盤に「健康で豊かなくらし」を創造するための理論と技術を学ぶために、学生全員が衣・食・住の中から希望の分野を選べるカリキュラムが用意されました。 その後、二年次には一年次とは異なる分野を学習することができるように選択の自由が広がりました。 私は被服分野を担当させていただいておりました。

被服では当初素材から始まり、被服構成学・実習に重きを置いていましたが、時代の要請に応じてデザイン、制作、コーディネイト、アクセサリー、帽子、管理、アパレル産業、マーケティングなどと学ぶ科目が増え、そのため被服構成学・実習の時間が以前より半減というような経緯を辿ったりしております。 従いまして被服構成は基礎的な学習に絞り、後は各自の努力によって応用発展するように変更したりしました。

昨年十一月十一日、十二日短期大学部最後の学園祭は二年生だけでしたので、人手不足でどうなることかと心配しましたが、学生の皆さんが一所懸命頑張ったおかげで、ハンカチ、ティッシュ入れなどは何回かに分けて出品しましたが、すぐ無くなるという状況が続き、また卒業生の評判もよかったようです。 さらに非常勤の先生方、副手の方々のご協力をいただいて、無事終了することができました。

十二日のホームカミングデーには、多数の卒業生においでいただき、なつかしく拝顔し、会社のこと、友人、家庭のことなど、お話は盛り沢山で尽きませんでした。 そこで、後日被服構成室でゆっくりとお話をする機会をとのご要望で、グループや個人で、訪れていただいたりもしました。 年代もご年配の方から若い方まで色々で、世代を超えて跡見の旧き良き時代を懐かしんでおられました。

その中には大学生のお嬢さんをお連れになり、二世代同席という微笑ましいお姿もみられました。 また、皆さんお美しく、ご立派になられ、それぞれの道でご活躍なさっておられるごようすを、頼もしく拝見いたしました。

今両親の世話をしている私から見ますと、出回っている老人介護用衣服は標準体型でないと合わないと言っても過言ではありません。 そこでその人に合わせて適切な素材で作製するのが理想ですが、できない場合は既製品を買って改良すると、よいことがわかりました。 両親の世話にかかわる体験から、よりよい老人介護衣服について、これからも少し研究をしていきたいものと思っております。

若い皆様のおかげで若さとファイトをいただき勇気づけられた勤めの日々でした。 ありがとうございました。

どうぞ皆様お元気でのご活躍と跡見学園のますますのご発展をお祈り申し上げます。

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最後の卒業式

平成十九年三月二十日に本校講堂で短期大学部最後の卒業式が行われました。 この五十六期の卒業生を最後に跡見短期大学は閉校となります。

例年、桃李の会常任幹事の卒業式への出席は七、八名でしたが最後ということでほぼ全員が出席し、続いての桃李の会への入会式に臨みました。


卒業式

入会式

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