おとずれ第31号目次へ

ご退職の先生


久保貞次郎先生のこと

竹内 廸也 フランス語Ⅰ・Ⅱ、言語の研究

先生が短大学長に就任されて初めての教授会の時のことである。 私たちが席についていると、先生はにこにこ笑いながら会議室に入ってこられた、
「ぼくはどこに座ればいいんですか」
とドアの近くにいた教員に訊ねた。 そして、中央の学長席につくと、とても短いスピーチをされた。
「久保です。 ぼくは毎朝、跡見短大を日本一の短大にしよう、と唱えることにしました。 皆さん、どうぞよろしくお願い致します」
全員が拍手した。 私は拍手しながら、これが簡潔明瞭な演説というものであろうと思った。

当時は教員の数が少なかったので、私は生活芸術科のクラス担任をしていた、 そのクラスの学生たちが軟式野球のチームを作りたいと言ってきた、 久保学長にお話しすると、
「うん、いいことだね。みんなにグローブを買ってやり給え。 こういうことは早い方がいいよ」
と言われた。 先生は高校時代、硬式野球部に入っておられたのだそうで、たいへん熱心な口ぶりだった。 野球チーム参加希望者は十四人いた。 ブローブ十四個、バットとボール、それにミット、プロテクター、マスクも必要だろう…。 私は少々、いや、かなり心配しながら、学生にグローブなどは持っているのかと訊ねてみた。
「はい、全部あります。今、ユニフォームのデザインを考えています」
という答だった。 私は大いに安心し、チームは結成された。 学園祭の日、野球部は教職員と試合を行い、久保先生はピッチャーとして参加され、なかなかの速球を投げて学生達をくやしがらせた。 先生の方は
「本(ほん)ボールでやりたいねえ」
と平気な顔をしておられた。 本ボールとは硬球のことであった。

『木を植えた男』のジャン・ジオノ、『世界の果てまで連れてって』のブレーズ・サンドラールに共感しておられた先生は、作家であり画家でもあったヘンリー・ミラーの版画を広めようと努力されていた。
ヘンリー・ミラーの絵を見つめていると
「みんなに元気を与えてくれる人だよ、彼は」
という先生の声が聞こえてくる。


「春雪の別れ」

安藤 幸 基礎演習、女性の健康と運動、舞踊論

気がついたら三十六年の月日が過ぎていました。 退職前に、後任の方に気持ちよく引き継いでいただくために、研究室と体育館倉庫内の整理整頓の作業をしなければなりません。 その作業日程を十日間として、副手の方々と日程の調整をして、成績採点、提出を終えた日から始めることにしました。

積み重なった書類の量と埃に三十六年間という歳月を思い知らされました。 軍手をはめての作業でも、たちまち手は真っ黒になってしまいます。 しかも、その書類や物は、私にとっては、すべてが思い出につながるもので、作業中に懐かしく読み耽ってしまうことが多く、一向に作業が進みません。 副手さんからは「これはどうしますか」と質問されても決断がつかぬまま曖昧な返事を繰り返していました。 しかし、そんなことをしていては日程の中で終わりそうもないことに気が付き、思い出を断ち切らざるを得ませんでした。 やっと作業日程の中で何とか整理がつきましたが、大変な作業でした。

三月に入って、日差しも柔らかくなった頃、副手さんたちが私のために「ごくろうさんでした」の会を計画してくれました。 熱海の伊豆山の山の上にそびえ立つ、立派な会社の保養所に準備されていた部屋は、私がこれまで泊まったこともないような豪華な広い部屋でした。 窓は一枚硝子で広い眺望の中に相模湾が見え、初島、大島まで見渡すことができました。 思わずみんなで「うわー」と歓声をあげてしまいました。

夜、お食事もすんで、みんあで昔の話を懐かしんでいた時、急に雪が降り出し真っ暗闇の中から真っ白い雪が、大きな窓に向かって次から次へと降りつけてくるのです。 その時、一人の副手さんが「これはきっと二万一千人の卒業生のみんなが、先生にご挨拶に来ているのですよ」とつぶやきました。 みんな声もなく、降りつけてくる雪を見つめるばかり…。

この情景は、私に過ぎ去った年月を一瞬頭の中をかけめぐりました。

卒業生の一人一人を明確に思い出すことはできないのですが、いろんな場面が思い出されます。 スキー教室(赤倉、志賀高原、八ヶ岳、蔵王など)、モダンジムナステックスクラブの合宿練習、新人歓迎、送別などのコンパ、学園祭の公演等は、全て8ミリ映画やVTRに記録され大事に保存してあります。

そして、体育の授業の中でのエピソードは数限りなく思い出されます。

卒業生の皆さん、思い出をたくさんありがとうございました。


「軟式庭球部」

小高 晋二 ドイツ語Ⅱ、教育原理と制度、教師論

「跡見の思い出」ということであれば、私の場合、それはやはり学生との関わりということになります。
もちろん、年々歳々人は変わるわけですから、いろいろな学生の顔や名前が浮かばないわけではありませn。 しかし、「思い出」的な関わりということになれば、私の場合、それは軟式庭球部の学生との関わりということになります。 私の記憶では、この軟式庭球部は1987年まで存続したと思いますので、顧問としての関わりも1987年までということになりますが、特に印象深いのははやり初めの頃の何代かということになります。
さて、私がこのテニス部の顧問となったのは1974年でしたが、部員達との最初の出会いは、部長のTYさんを先頭に確か8人の学生が何の前触れもなく研究室に現れ、やや緊張した面もちで、テニス部の顧問になって欲しいと言って来た時でした。 正確ではありませんが、恐らくそれは4月の初めだと思います。 場所は今の西館の中高に面した元の第6研究室で、時間は昼休みでした。
まず部長のTYさんが「顧問に」と切り出し、残りの人達が「お願いします」とか唱和したように思います。 私には少々戸惑いもあり、どういう事情かと聞きましたところ、それまで顧問であったK先生が女子大に転任になり、その後釜にとのことでした。 私は着任3年目であり、どこの部の顧問にもなっていませんでしたので、引き受けることにしました。 そのとき私が具体的にどう言ったかは憶えてはいませんが、引き受けるからには活動にも参加するということを多分表明したように思います。 それに対して学生がどういう反応であったかは全く記憶にありませんが、私としては、顧問は活動に参加してこそ顧問の意味があると考えていましたので、その種の発言をしたわけです。

それ以後私は、週3回の練習にはできる限り参加しました。 私はテニスは素人同然でしたから、ラケットに球を当てることから始めたわけです。 面倒な新人が一人増えたということでしょう。 練習以外にも試合や合宿などにも参加し、全日本や東日本の大会にもついて行きました。 福井や札幌にも足を延ばしました。 しかし、このテニス部も私が顧問を引き受けて以後、残念ながら年々その成績が振るわなくなり、大会への参加も途切れるようになりました。 不徳の結果ということでしょう。

ま、それはそれとして、最後につけ加えたいことは、この当時の何代かの学生達(今はいいオバサン達)とのつき合いがそれなりに今でも継続しているということです。 これは私にとっては予想外のことでした。 そしてこの度の小生の退任に関し、彼女達が一席「ご苦労様」の会を設けてくれたということについては、正に、教師冥利に尽きる思いだったということです。感謝。


アトミックレディに期待して

池辺 国彦 平面表現、生活芸術演習、デザインⅠ・Ⅱ、基礎演習

在任中に心に残る思い出や出来事などについて書くようにというご注文ですので、色々と思い出してみたかったのですが、非常勤の期間が長く、最後の一年間を専任として勤めさせていただいた立場ですから、ご期待に添うような面白い話は難しいかもしれません。 いつもの調子でお話させていただきます。

跡見学園に来る人たちが、都電か都バスを利用していたころ、私は都電通りをはさんだ反対側の東京教育大学(現・筑波大学)に通っていました。 昭和二十六年(1951年)の入学です。 当時の跡見学園は既に中が香と高等学校それに短期大学という今の形ができていました。 「生活芸術科」という名称は大変新鮮に眼に映っていて濃いブルー地に白い文字の看板は未だに残像として私の脳裏にあります。 私の大学は男が圧倒的に多かったので、お茶の水女子大学、跡見学園といった花園には大変な関心がありました。 言い訳ではなく仲間の誰しもがそうだったと思います。 勉強そっちのけ、演劇部で舞台装置などをつくっていたのですが、先輩たちの中にはアクトレスがいないというので、お茶の水とか日本女子大に出かけていってスカウトしてくるといった勇ましいのがおりました。 跡見はお嬢さん学校で、よい家庭の娘さんが通っているという(いえ、今でもそうです)専らの話でしたから、むさくるしい男達は敬遠した(された?)のかもしれません。

生活芸術科に兼任講師としてきたのは、昭和54年(1979年)の四月からです。 国立大学に比べると格段に教授陣をフォローする人員が充実していて大変円滑に授業ができました。 現在は国立大学に比べて遜色のない(言い方も色々ある)構成になったように感じます。

跡見のよさは、学生と教師の間に福手がおり、きめ細かく連携して学生に接したことでしょう。 一週間に一回の講師にとっては大変有難い存在でした。 これは、立場を変えると学生にとっても同様であったと思います。

副手の人達が担ってきた役割は大変大きいものがありました。 大学運営にとって換え難い存在だと私は思っています。 そこで提案ですが、学生の中には得がたい人材も見受けられます。 そういった観点で申し上げるのですが、跡見の卒業生の中から母校に教師として戻ってくる人がいる。 大学から付属まで全部はよくないが、二分の一くらいはアトミックレディで占めて欲しいと私は思います。 そこに、本当の跡見の伝統をバックボーンにした特色が生まれてくるのではないでしょうか。 同窓会の役割には、そういうこともあるのではないかと思っています。 そのためには学園の同窓会が大きな力を発揮して欲しいと思っています。 終りになりましたが同窓会の皆様のご健康とご発展を心から望んでいるものです。


教職課程を担当しての思い出

浜島 教子 家庭科教育法、教育の原理

私は昭和六十年四月より本年三月まで教職課程家庭科教育法の非常勤講師として、十八年間勤務いたしました。 親戚や知人に跡見学園の卒業生がいて親しみのあったことと雰囲気のよい学園で、快く勤めさせていただき、十八年もの長期間が過ぎたとは思えない感じがいたします。

教職課程は教員免許取得のための選択科目で、履修学生は少数でしたが、熱心でした。

前期は主として中学校家庭科全般の教育法についての講義を行い、後期は演習形式で実際の学習指導案の作成をしたり、模擬授業をいたしました。 前期の講義には学生はほとんど全員出席を続けていましたが、後期は個人個人で自発的に取り組まなければならないので、最後まで続かない学生が毎年二名くらいありました。 でも努力して教育実習まで頑張った学生は、中学校での実習後、充実感を味わい、一まわり成長した様子で、笑顔で報告に来ておりました。 私もほっとして、たのしさを味わう一時でした。

教員免許取得のための履修単位は昔と比べると、社会の要請で順次多くなり、短期大学での学生の負担は増えました。 平成元年の改正では、中学二種免許取得要件は教職専門科目で三科目三単位、教育実習一単位の増加となり、平成十一年度よりは介護体験七日間が加わりました。 でも、少し努力すれば取得不可能というわけでもなく、卒業後四年制の通信教育で追加すれば一種免許取得も可能で、実際に過去にそのようにした学生もいました。 また、家庭教師や塾の先生、学童保育や補助教員の採用に役立つこともあるし、母親になった場合やP.T.A、地域活動に役立つこともあるので、本年三月まで学生とともに努力してきました。 しかし、近年の改正では、教職専門科目や教育実習が更に増加し、短期大学卒行単位との併修が困難になりました。 一方、短大生の就職状況が厳しくなり、教育実習中、就職活動ができないことは実際の就職をむずかしくすることになるので、採用のほとんど望めない短大の教職課程は、跡見短大では平成十四年度入学生までということになりました。 私もこの辺りで終りとするのが適切であると思います。

跡見学園は創立以来、女性の巾広い教養と豊かな人間教育に重きのおかれた伝統校であると思います。 女性の社会進出には資格および職業教育が必要ではありますが、よき職業人となるためにはよき人間性が必要とされます。 複雑に発展する社会の中にあって、次代にふさわしい家庭人、母親、社会人として生きることのできる基礎教養を若き時代に学ぶことは大切なことと思います。 卒業生の皆様と学園のさらなるご発展をお祈りいたします。


跡見短大の思い出

原田 陽子 日本国憲法(1)(2)、くらしと法律(1)(2)

私は、昭和五十九年に塩田明子先生のご紹介で、家族関係の講義を始めて担当させていただきました。 大学院で家族法を専攻したこともあり、日本の家族についての法律知識を中心に講義をさせていただきました。 やがて、日本国憲法や法学をも担当させていただくようになりましたが、当時の学生はまだ法律知識を敬遠しがちであったので、日常生活や人生に役立つ法律を是非知って欲しいと願いながら、学生とともに学ばせていただきました。 学生も当初はちらほらの少人数の受講者でしたが、やがて講義日が変わったこともあり、抽選して人数制限するほどの数に増加し大変うれしく思いました。 さらに、女性の社会進出が進むと社会人(新潟県出身の民宿経営者、証券会社会社員、子育てを終えた中高年齢者など)が受講するようになり、豊かな人生体験などの発表をお願いしたりして、活発かつ充実した講義となりました。 また、国際化社会、少子高齢化社会、女性の職場進出、共働き社会になると、くらしと法律や生活と法律の科目が新設されました。 学生も日本の法律だけでなく、世界の動きや法律に応じたグローバル的視野の法律知識(たとえば、クローン、体外受精、セクハラ、環境、拉致、虐待、介護、尊厳死など)を求めるようになったので、私も最新情報を取り入れようと努力させていただいたので、学生には好評だったようです。

現代の学生は、大学に入学する前にすでにアルバイトなどの社会体験をしているので、家族、社会、国際関係などの幅広い法律知識を求めています。 また、テレビなどで毎日のように法律問題を取りあげているので、自分で関心のある分野の法律知識をもって受講するようになったのが最近の大きな特徴です。 質問も当然多くなるので、私もうかうかしてはいられないと尻をたたかれるように勉強させていただきました。

女性の就労が当然と考えられる今日、これからの女性が、社会人、家庭人として堂々と力強い人生を送るための役立つ法律知識として、最近、所得税、贈与税、相続税などの税法を講義内容に取り入れました。 正直なところ、計算が多いため、学生に理解してもらえるかと心配でした。 しかし、すでに職場体験で計算になれている学生は、理解や解答も早くかつ正確で、私は大変嬉しい悲鳴をあげました。

法律は社会の変化とともに変わりますが、学生も社会の動きを敏感に察知し、将来に必要な法律知識を堅実かつ着実に身につけています。 このすばらしい才能と情熱をもつ学生がになう将来の社会は、名実ともに男女が共同して築く平等社会となって実現すると非常に期待しています。

教職員の諸先生、校友の皆様のあたたかい御指導を賜り、十九年間大変楽しく充実した教員生活を才知溢れる学生とともに歩ませていただき、大変有難く幸せに思います。 本当にありがとうございました。

跡見学園女子大学短期大学部のますますのご発展と皆々様の御健勝と御活躍を心からお祈り申し上げます。


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