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思い出−人とことば

湯澤賢之助

人−坂田勝先生

昭和四九年に本学にきてから早くも二六年経ってしまいました。 何を見ても思い出の種ですが、坂田勝先生はとくに忘れられない万です。 古い卒業生の方は、先生のことをよくご存じと思いますが、先生は私が跡見に来た翌年に亡くなられています。 すでにご病気中で跡見でお会いすることはできませんでしたが、先生は東京教育大学(現筑波大学)にもお仕事をお持ちでした。 昭和二五年教育大に入学した私は、二年次頃からよく国文科の図書館に行っていましたが、ある冬の一日、そこに置いたオーバーを盗まれてしまったのです。 その時、図書室の責任者だったのが坂田先生で、本人以上に心配され、警察への届けから何からすべて私に同行して下さり、夕食まで食べさせてくださったのです。 その後、父と一緒にお礼に伺ったのが縁で、それから二〇年以上にわたり親身のこ指導をしていただきました。 先生は酒仙と言ってもいい方でしたから、お宅へ伺って一晩飲み明したこともありました。

先生は、早くから松浦静山の『甲子夜話』の研究に没頭されており、晩年における集中はすごいものがありました。 圧倒される迫力がありました。 一方で、跡見の学生はほんとうにかわいい、こんなすばらしい学生に囲まれている私は幸せ者だと、お会いするごとにおっしゃっていました。 その跡見に私が採用になった時も大変喜んでくださいましたが、先生はすでに病い重く、学校でお会いできなかったのは、かえすがえす残念なことでした。 坂田勝先生−ほんとうに懐しい先生です。

ことば−ごきげんよう

昭和四九年四月、はじめて本学に来て、当時の第四研究室のドアを開けたとたんに、助手をしていた矢野圭子さんに、いきなり「先生、ごきげんよう」と言われて、なんと答えてよいか わからず、ドギマギした覚えがあります。 当時ではごく当り前の挨拶だったようです。 学生からもよく言われたものでした。 「ごきげんよう」は、江戸時代の洒落本や、滑稽本の『東海道中膝栗毛』に見られる、町人でも日常使っていた言葉のようですが、そういう言葉が跡見で日常使われているのは、嬉しいかぎりでした。

先生方もよく使っておられました。 図書館に行くと篠崎和子司書長から、よく「先生、ごきげんよう」といわれたのを覚えています。 その「ごきげんよう」を使われた最後?は、先年退職された望月登美子先生だったように思います。(今も使っている方が、おられたら失礼)

古きよき時代のことばが、近頃どんどん消えていきます。 それはそれで仕方のないことでしょうが、国語の教師としては淋しさを禁じえません。

では私も、生まれてはじめて、「皆様ごきげんよう」と言わせていただいて、この稿をおわらせたいと思います。

(日本文学講義・文学を読む)
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思い出と師の教え

蓑輪 英淳

跡見にきて26年、本当に光陰矢の如しです。 その前に非常勤を女子大・短大で4年ありますから、合計30年になります。

光陰矢の如しといっても、その間さまざまな事がありました。 久保貞次郎先生の学長就任、東館新築、英文専攻設置、体育館新築、創立30周年、創立40周年、創立50周年。 それに、有富先生、鈴木先生、久保先生と三人の学長先生、生芸では大木先生、千原先生、三宅先生、馬場先生、田中(芳郎)先生、深尾先生など数多くの方々とお別れしました。

また、受族生が6千人近くになり、これ以上になったら中・高と短大の校舎では収容しきれなくなると真剣に悩んだり、東館建築の時、陶芸の授業を小日向寮の食堂にピ二ールシートを敷いておこなったり、西館4階の小講堂でデッ サンの授業をするために、その都度イーゼルを学生と一緒に運んだり、西館ロビーや講堂での卒業制作展などなど、その時は大変でも今になってはどれもこれも懐かしい事ばかりです。

「確立した価値に疑いをなげかけるひとびとの仲間が放浪者である。 芸術家は固定した価値に抵抗する精神が創造の前提であり、その態度が重要な才能と呼ぶべきものである。」

「芸術は生命との格闘であり、鑑賞とは、芸術家とそれを観る人との魂の対決である。」 いずれも、久保先生の文章の一節です。

 描けなくなるまで描こう。  
私にとって、描くことは生きること、  
生きることは描くこと。

これは、1997年の11月に92歳で亡くなった私の師、難波田龍起の詩の一節です。

その難波田先生の師、詩人で彫刻家の高村光太郎の詩に

 生きよ、生きよ、生き抜いて死ね。  
その先は無い、無いからいい。

というのがあります。

久保先生の創造への姿勢、難波田先生や高村光太郎の芸術家としての生きざまを示して痛烈です。

私はこうした師の導きによって生きてきました。 素晴らしい師に出会えたことを大切にして、あと残された時間を描き続けていきたいと思っています。

どんなに社会が変わっても、人間の本質が変わるわけではありません。 跡見が創立以来100年を越える長い年月にわたって繁栄してきたのも、人間の本質を大切にしてきたからだと思います。 もちろん、時代に対応することは大切ですが、いままで培ってきた跡見の良い伝統は決して手放さず、これからも発展していって欲しいと願っています。

(造形実習・洋画)
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私の「比較文化論」と海外研修

武本 昌三

跡見に十五年間勤めて退職の日を迎え、私には、いまさらのように、学生諸君といっしょになって取り組んできたいろいろな授業のことがなつかしく思い出されます。 なかでも、「比較文化論」と海外研修は、私にとっては跡見での大切な二本の柱になっていました。

英語を学ぶために跡見に入学してくる学生諸君に対して、私はよく、英語とはどういう言語か英語を学ぶ意味は何かを考えようと、問いかけてきました。 そして、日本語の山は英語の"mountain"ではないし、川は"river"ではない、と言ったりもしてきました。

そのような違いは、例えば昔私が、パリのモンマルトルの丘で撮ったビデオの映像などにも示されています。 何十羽という雀が群がって、若い女性がさしのべた手のひらから餌を食べているのです。 雀はフランス語では"moineau"で、英語では"sparrow"ですが、雀が"moineau"や"sparrow"と全く同じだとしたら、この若い女性の手のひらに群がって萌を食べている情景は理解できないことになります。

日本の雀は、大昔から大切な稲を食い荒らす農家の敵で、人間の姿を見れば逃げていました。 しかし、気候風土の厳しい西欧では震業生産性は低く、人間の生存は牧畜によって支えられてきましたから、雀が目の敵にされることもなかったのです。 つまり、雀と"sparrow"の違いは、稲作文化と牧畜文化の違いと裏腹になっていて、山と "mountain"との違いは、日本と西欧との気候 風土の違いを如実に示すものに他なりません。 (拙著『英語教育のなかの比較文化論』『イギリス比較文化の旅』等参照)

言語は文化ですから、この文化の違いに気づかなければ、ことばの本当の意味は理解できないでしょう。 私はそれを「比較文化論」で講義してきました。 さらに、「比較文化論」海外研修も毎年、 実施させていただき、私が企画・引率してきた海外研修は、「英語海外研修」などを含めますと、いままでに二十回にもなります。 跡見ではこうして、私の好きな授業を好きなやり方で実施させていただいたことを、大変有り難く思っています。

結局、教育とは感動であり、美しい想い出を学生諸君と分かち合うことなのでしよう。 「比較文化論」では、私は毎回、時間をかけて準備をしたうえで、学生諸君と共同作業の感動の授業を作り上げ、海外研修では、毎年欧米で、数多くの美しい想い出を学生諸君と分かち合ってきました。 その記録は、「英文宴」やEVERGREENの特集記事などに数多く残されていますが、これらは、学生諸君と私の共通の貴重な財産といえるかもしれません。

こうして、一生懸命に授業に取り組んでいるうちに、いつの間にか十五年の歳月が流れていきました。 いま振り返ってみますと、この十五年は、私が跡見の学生諸君から学び、学生諸君の優しさに導かれてきた十五年でもあったような気がいたします。 私の跡見での教育を支えてくださった教暇員の方々に対して、そして、私の授業に私語ひとつせず熱心に参加してくれた多くの学生諸君に対して、改めて、こころからのお礼を申し上げます。

(比較文化論・英語学概論)
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跡見を去るに当たって

2001年3月

高橋 昌巳

教室の先輩の中村典夫先生がアメリカヘ留学された後、帰国するまでの間との約束で本学の非常勤講師となったのは今から30数年前の昭和42〜3年の頃であったと思います。

当時、日本医科大学で毎日ウサギやラットを相手に蛮カラな研究生活をおくっていた私が、本学へ始めて来た日に、学生さん達から「こきげんよう」と挨拶されたのにはびっくりしました。 それも今は懐かしく感じます。

日本医大に15年間、聖マリアンナ医大で約20年間教育と研究に明け暮れ、定年を迎え、さらに筑波技術短期大学で数年間教鞭をとり、その後、社会福祉法人の理事長をしながら5年間が過ぎ、いよいよ本学を去ることになりました。 結局、私にとって本学が教育職の最終の場であり、また最も長く勤務したことになります。

中村先生から本学の非常勤講師を引き受けたものの、先生のように講義ができるか大変なやみました。 何しろ微生物学・免疫学は医学関係の人でも興味を持つものが少ない学問です。 当初は先生が行っていた講義順に話しを始めましたが、難しかった様です。 でも学生さんは熱心に静かにノートをとっておられました。

そこで考えたのが初めに細菌を見せて、それから講義をすれば多少とも興味を持つと考え、自然科学教室で顕微鏡下の細菌を見せ、あるいは手のひらに培地(細菌が発育するための栄養素を寒天で固めたもの)を当てて、2〜3日後に来て観察してもらい、次の週にもう一度説明することにしました。 ほとんどの学生さんは「こんなに沢山の菌がいる」と驚きを感じた様でした。 毎年沢山の人が食中毒にかかります。 その発生件数の20〜30%が家庭から起こりますので、どうしたら防げるか、実習に消毒を加えました。 この実習をお手伝い下さった助手の先生方が数人おられましたが、今中先生以外はお名前を思い出せません。 この紙面からお礼申し上げます。

時代が代わり、大学に偏差値で入学するようになるとオシャベリが盛んとなり、何も身につかないで講義が終わることになると思い、夏休み前に各人にテーマを与え、2学期からそのテーマを10分から20分で発表させ、皆でディスカッションする形式を取れば、卒業するまでに何か一つ身についた物が残ると考え実行しました。 中には沢山のグラフや表を作り、ていねいに発表し、ディスカッションした年もありましたが、近年は自分で書いた字さえ読めない人が増え、只、自分の与えられたテーマを本から書き写すのみで、気力のない学生が増えてきているのには寂しさが残ります。 授業の最終には、各自の生涯のテーマを考え、常に記録しておくことを強調してきましたが・・・・・・?


今、私は社会福祉法人桜雲会という視覚障害者の情報提供施設の理事長をしています。 この会は東京盲学校(現在の筑波大学附属盲学校)といった時代の同窓会から始まった会で、丁度今年で110周年を迎えます。 目下、年誌をつくるために過去のことを調べていましたら、大正天皇のこ成婚記念に本学の創立者跡見花蹊先生の「五月晴」の詩を盲学校のお琴の教員であった山田流の萩岡松韻先生が作曲し、栄誉を得たと書いてあるのをみて何か浅からぬものを感じました。 いづれ機会がありましたら花蹊先生の詩を読ませて戴きたいと思っています。

ここ数年ベトナムの視覚障害者の自立支援のため、毎年ベトナムヘ行っていますが、その勉強の熱心さや活力溢れる生活力は終戦後の日本のようです。 また、食の種類の豊富さにも、驚きを感じています。

本学では毎年∃−ロッパ文化に触れられておられるようですが、日本人のルーツであるアジアにも目を向けてはいかがですか。 生きるのに一生懸命な姿を感じとってもらいたいものです。 おそらく今の日本人か失ったものを感じられると思います。

最後に、私どもの会に本学の同窓会や一部の方々からご協力を賜っていることに感謝すると同時に今後ともご支援をよろしくお願い致します。 長いこと有り難うございました。

(微生物・免疫学及び個人衛生学)
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記憶の片隅

下地 一 丸

はるか昔の事のようで記憶の綾も定かではないが調べてみたら跡見女子短大に勤めさせていただくようになったのは昭和55年(1980)からである。

何もかもがおぼろになる中で、一つだけ覚えているのは、常勤の先生方が非常勤講師の先生を迎えて懇親会のような団欒の一時を持って下さる一日があり、私は勤めさせていただいた最初の年にその場所に出席させていただいた。

司会して下さった女の先生は「こちらの方で非常勤の先生方のお名前を紹介しますから、そうしたらその後で何か一言ご挨拶をお願いします」という主旨の事を云われた。 順番が私に来た時、司会の先生は私の名前を紹介して下さって、「こういう若い方に、しっかりやっていただきたい。期待しています」という意味の一言を添えられた。 外部から来た者に対する暖かい励ましの言葉だが、その言葉に戸惑い、狼須えた。 2001年の現在、私は満70才だから、その時は49才くらいの勘定になる。“若い”という言葉には“未熟”それに続く、青臭い、青二才、と云う意味も含んでいる。 人間的に自分の未熟さを厭という程、自覚し、内心、常にその事に対して忸怩たる気持を持っていた私は、急に緊張の度合が昂まり、「この学校に非常勤で勤めないかと云われた時、最初はお断り致しました。 しかしお声をかけて下さった先生が望月先生だったので喜んで二つ返事で引き受けさせていただきました」とい辻褄の合わない事を云う羽目になった。 云うまでもなく“二つ返事”は、ためらうことなく、すぐ承諾する時に使う。 一呼吸置いて引き受けたのは訳が違う。 この間違いに気付いて居心地の悪い半時を過す結果になったのを覚えている。 

その時の望月登美子先生は、本来の授業担当の他に跡見の教務の要職も兼ねられ所謂、八面六臂の活躍をされていた。 私はそれ以前から、自分の勤め先である文化女子大学で、先生にお願いして「美学」と「美術史」の授業を聴講させていただいていた。

該樽な知識に裏打ちされた講義は含蓄とウィットに富み難解な内容も平易に、噛みくだくように説明して下さるその涼やかな美しい声と典雅な物腰は、沢山の心酔者を生み、私も大勢の学生さんの中に混じって一生懸命ノートをとった。 この時、学習させていただいた内容は1974〜1975年の一年間のヨーロッパ旅行、特にイタリアの教会のフレスコ画等を観る時に非常に役立った。

そんな訳で私は、望月先生の心酔者の一人として喜んで跡見女子短大の非常勤講師をきせていただいた訳である。

勤めさせていただいた21年の歳月は、学生さんの学生としてのスタイルを大きく変化させたような気がする。 現在の学生さんは自由で屈託がなくそして何より皆、お洒落が巧みで美しい…そんな事を感じている。

最後に長い間お世話になったお礼を申し上げ、学園の更なる発展を祈願して筆を潤く次第である。

(服飾デザインT)
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「桃李の会奨学金」制度発足によせて

学生課長 中島伸次

新しい年度が始まり二ヶ月程経ちました。 キャンパス内の雰囲気はようやく落ち着きをみせ、学生たちは授業やクラブ活動に忙しい日々を送っています。 二年生はこの時期、就職活動のピークを迎えています。

ほとんどの学生はキャンパスライフを満喫し、無事卒業して社会へ飛び立っていきます。 しかしごく少数ですが、経済的不況のあおりを受けたり、ご家族に突然の不幸があったりして、学業の継続に困難をきたしている学生がおります。 従来、そのような学生を経斉的に支援する制度は本学にありませんでした。 卒業を間近にして学籍を離れざるを得ない学生がいることは、本人は勿論のこと、私たち短大関係者にとっても痛恨の極みでした。 そのような中、桃李の会により奨学基金が設けられ、「桃李の会奨学金」制度ができましたことは、学生にとって何よりの朗報であります。 この制度は、学業に真摯に取り組んできたにもかかわらず、家庭の経済的な事情で退学せざるをえない学生に奨学金を給付し、学業の継続を援助するというものです。 この奨学金制度のお陰で、学生たちは安心して学業に励むことができるようになると思います。 桃李の会のご英断に深く感謝申し上げる次第です。


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